

浄土真宗本願寺派の仏事 -み教えに関すること-
浄土真宗の聖典である浄土三部経とは
数多くあるお経のなかでも、阿弥陀さまの教えが説かれている「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」を浄土三部経といいます。
そもそもお経とは、お釈迦さまの説かれた教えが文字によって記録されたものです。インドの言葉で記されていたものが中国において漢訳され、そうした多くの経典が日本に伝えられました。仏教の各宗派では、それぞれに教義の根本となる経典がありますが、浄土真宗においては、浄土三部経が教義のよりどころとされています。
「仏説無量寿経」では、法蔵というお名前の菩薩が、浄土建立と衆生救済を48の願いとして誓われたことが説かれています。この法蔵菩薩というお方が、私たちを救ってくださるために果てしなく長いあいだ修行を積み、阿弥陀仏と成られたのです。
「仏説観無量寿経」は、インドにあったマガダ国を舞台にしたお話です。この国の王は、王子である息子によって牢に閉じ込められてしまいます。后は、王のために食べ物などをひそかに牢へ運びますが、王子に知られ、后も牢に幽閉されてしまいます。その后の苦悩を救うため、お釈迦さまが、阿弥陀さまのお浄土と念仏による往生を説かれる様子が記されています。
「仏説阿弥陀経」は、三部経のなかでも、法要でお勤めされることが特に多い経典です。念仏として現れた阿弥陀さまのはたらきによって、私たちが極楽浄土に往生させていただく、他力の念仏が説かれています。
正信偈とも呼ばれる正信念仏偈とは
親鸞聖人の代表的な著作が、浄土真宗の教えを明らかにされた「教行信証」です。正式名称を「顕浄土真実教行証文類」といい、浄土真宗の根本となる聖典です。この教行信証の行巻におさめられ、浄土真宗の教えを凝縮して示されたのが「正信念仏偈」です。
正信偈には、まず、阿弥陀さまが仏となる前の、法蔵菩薩として修行されていたときに本願を誓われた場面が述べられ、続いて、浄土真宗の基礎となる教えを伝えてくださった、インドから中国を経て日本に至る7人の高僧の徳が讃えられています。そして、真実の信心を得てお浄土への往生を願うべきであることが述べられているのです。
正信偈は、蓮如上人の頃に、日本語でつくられた和讃とあわせてお勤めすることが始められました。本堂で一緒にお勤めをされた方、あるいはご自宅でお勤めされている方もおられることでしょう。
他力本願の他力とはだれの力か
「他力」とは阿弥陀さまのお力であり、「本願」とは「すべての人を信心と念仏によって救い、仏と成らせよう」という阿弥陀さまの願いです。つまり、自分の力では煩悩の苦しみから離れることのできない私たちのために、阿弥陀さまは衆生救済の願いを誓われたのであり、その願いを阿弥陀さまご自身のお力で実現しようと、私たちにはたらきかけてくださっているのです。
他力本願とは、私たちの欲望を満足させるような願いを実現するために自分以外の力を当てにするわけでは決してありません。
また、他力本願である浄土真宗の信心は、阿弥陀さまを信じようと努力する自力の信心でもありません。浄土真宗の信心は、阿弥陀さまからいただく信心、阿弥陀さまの本願力によってめぐまれる信心です。
私たちは、この阿弥陀さまからめぐまれた信心を種として、仏と成らせていただくのです。
悪人正機の悪人とはどんな人か
悪人としてまず思い浮かべるのは、犯罪者のような、法律や道徳を基準としての悪人でしょう。
しかし、悪人正機における悪人とは、仏教の善悪を基準とした悪人であり、迷いが深いためにさとりを開くことのできない人のことなのです。私たちは、毎日さまざまないのちをいただいて生きています。そして、私の心には自分勝手な考えがすぐに浮かびます。煩悩に支配され、迷いのなかにあり続ける私たちは、まぎれもなく悪人です。そんな私たちにも、阿弥陀さまは、平等に慈悲の心を向けてくださっているのです。
子どもが何人いても、親の愛情は子どもたちみんなに注がれるでしょう。子どものひとりが病気になれば、親の愛情は病気の子にひときわ向けられますが、他の子どもを愛さなくなったわけではありません。病気で苦しんでいる子どもをそのままにしておけないからこそ、その子に強く目を向けられるのです。阿弥陀さまも、煩悩という重い病気に苦しんでいる私たちにこそ、ひときわ慈悲を注いでくださっているのです。どんなに煩悩が深くとも、煩悩の苦しみから抜け出せずにいようとも、悪人の自覚さえない私たちを、阿弥陀さまは救いとってくださいます。それが悪人正機です。
しかし、だからといって、私のいのちのために他のいのちが犠牲になるのは仕方がないとか、自分勝手な考えになっても気にする必要はない、などと開き直ってはいけません。それは、親に優しくしてもらいたいがために、わざと病気になるのと同じことでしょう。阿弥陀さまが、どれほど私の煩悩の苦しみを心配してくださっているのか…。
阿弥陀さまの慈悲の心をいただいているからこそ、お念仏も、感謝のお念仏であるのです。
御文章とは
「御文章」は、室町時代の本願寺第8代宗主である蓮如上人によって書かれたお手紙のことです。
蓮如上人は、現在の本願寺教団の基盤を築かれた方で、「中興の祖」と仰がれています。
本堂やお仏壇にも、阿弥陀さまの脇には、宗祖親鸞聖人とともに、蓮如上人が奉懸されています。
現代と違い情報手段が非常に限られていた時代、蓮如上人は、浄土真宗の教えをわかりやすい言葉で書かれたお手紙にして、各地のご門徒に送られました。そのお手紙が「御文章」であり、届けられた御文章は、多くのご門徒の前で読み聞かせられたそうです。
蓮如上人は、たくさんの御文章を残され、法要でも拝読されることがあります。「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」とある「白骨の章」は、ご存じの方も多いのではないでしょうか。