

浄土真宗本願寺派の仏事 -葬儀、法要に関すること-
法名と戒名、どうちがうのか
他宗で用いられる戒名とは、生き物を殺さない、盗みをしない、嘘をつかないなどの「戒律を守る者」としての名前で、受戒をした人に対して授けられます。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、戒律を破らないと誓っても、その誓いを守り通すことができない煩悩の根深さを悟るとともに、そのような自分にも、阿弥陀如来という仏さまだけが「どんな悪人であっても必ず救う」とお浄土への道を示してくださっていることに大きな喜びを見出されました。そのため、受戒をすることなく、阿弥陀如来のおはからいである「法」によって救われる浄土真宗の門徒は、戒名ではなく、法名をいただくのです。
また、法名は亡くなった後の名前、というわけではありません。京都の西本願寺や東京の築地本願寺などで帰敬式を受ければ、法名をいただくことができますので、どうぞご相談ください。
遺体の服装はどうすればよいのか
お釈迦様が亡くなられたとき、ご遺体が真新しい布でくるまれたということにならい、ご遺体の服装は白服が正式とされますが、普段着でもかまいません。手は胸の前で合掌の形をとり、お念珠をかけます。式章をお持ちなら、納棺の際、ご遺体にかけてください。
亡くなられた方は、阿弥陀さまのおはたらきによってお浄土に往生され、仏さまに成られるのです。死出の旅路をたどることはありませんから、旅装束は必要ありません。同様に、旅の弁当代わりにお膳や団子、水などをお供えする必要もありませんし、魔除けの刀も用いません。
なぜ北枕にするのか
ご遺体の頭が北にくるようにするのは、お釈迦さまが亡くなられたとき、頭を北にし、顔を西に向けられていたことに由来します。
ご遺体は、なるべくお仏壇のある部屋に、お仏壇の正面を避けて安置し、可能な限り北側に頭がくるようにしますが、必ずしも北枕にこだわる必要はありません。
お仏壇に足が向いてしまう場合や、部屋の間取りなどから、ご遺体の向きを変えられても差し支えありません。
仏壇の扉は閉めるべきか
ご家族が亡くなられたとの知らせを受けてお伺いしたとき、お仏壇の扉が閉じられていることがあります。
神棚であれば、神様を死から遠ざけるために半紙で覆うこともあるでしょうが、浄土真宗の門徒であれば、亡くなられた方にとっても遺された私たちにとっても、心の拠りどころは阿弥陀さまです。
死の悲しみに直面した私たちが、ご遺体に対して手を合わせることもありますが、手を合わせるべきは、私たちをお浄土に救いとってくださる阿弥陀さまです。
お仏壇は閉めず、普段と同様、お仏壇にもお参りください。
葬儀と告別式のちがいは
葬儀とは、亡くなられた方との別れの儀式であるだけでなく、遺された私たちが阿弥陀さまとのご縁を深めさせていただくための宗教儀式です。これに対して告別式は、故人に別れを告げるための会であり、もともとは宗教が関わらないかたちで行われていたもので、浄土真宗の葬送儀礼において、告別式という言葉を用いることはありません。
また、葬儀は、故人をしのびながら生前のご縁に感謝するとともに、浄土真宗の門徒として阿弥陀さまに向き合う儀式です。手を合わせるべきは、故人の遺影ではなく、阿弥陀さまであることもご理解ください。
浄土真宗はなぜお清めをしないのか
人の死を悲しむ一方で、死を嫌い、清め遠ざけようという思いがわき起こることがあるかもしれません。しかし、浄土真宗の門徒にとって、死は穢れたものではなく、いただいたご縁のひとつですから、それを清めるようなことはいたしません。
忌中の貼り紙も、死の穢れが他におよばないために知らせる意味をもっていますから、葬儀の日程などを知らせるのであれば、忌中という言葉は使わない方法を用いてください。また、塩や酒をお清めとして葬儀で用いることもありません。地域によっては棺のふたを釘で打ちつけることもありますが、遺体を閉じ込める必要もありません。
死とは悲しい別れではあります。しかし、先にお浄土に往かれた方が与えてくださった、仏さまとの大切なご縁でもあります。そのご縁をいただき、自分自身のいのちの生と死を見つめる機会であると受けとめてください。
法要はだれのためにお勤めするのか
年回法要や年忌法要ともいわれる法要は、ご縁のある人々が集まり、故人からいただいた仏さまとのご縁をともに味わう行事です。
1周忌のあとは、3回忌、7回忌、13回忌、17回忌、25回忌、33回忌、50回忌と続き、それ以後は50年ごとにお勤めするのが一般的です。また、25回忌を23回忌と27回忌に分けてお勤めすることもあります。
これらの法要は、亡き人をご縁にお勤めするものですから、「仏さまの」ためにと思われがちですが、法要とは、今こうして生かされている私の命の尊さを、亡き人をしのびつつ味わわせていただく行事です。
どうぞ、「私の」ための法事として、ご縁をいただいてください。
おときとは
「おとき」とは、葬儀や法要の際の食事のことです。葬儀や法要での食事については、いろいろな言葉が使われますが、清めるべきものは何もありませんから、お清めという言葉はふさわしいものではありません。また、葬儀から数日間、肉や魚を断った精進料理を食事とし、その食事を通常に戻すことを、精進落とし、あるいは精進上げと言いますが、精進料理を召し上がるわけでもないでしょうから、おときという言葉を使われてはいかがでしょう。
おときという言葉の意味が他の人に伝わりにくければ、「食事」、「会食」という言葉をお使いください。
また、食事の際に乾杯の代わりや清めとして「献杯」が行われることがありますが、仏さまにお酒を捧げるというような作法はありません。故人をしのびながら「いただきます」と手を合わせて召し上がってください。
永代経とは
浄土真宗における永代経とは、「永代にお経が読まれる」という意味であり、「永代にお寺が存続し、仏教が繁盛し続けるように」という思いの込められた言葉です。そして、その思いを受けて、永代経法要がお勤めされるのです。
永代経というお経があるわけではありませんし、年忌法要で納めるお布施の前払いとして、永代経懇志を納めるわけでもありません。
ご先祖の遺徳をしのびつつ、「私」が仏縁を深めさせていただくため、どうぞ永代経法要にお参りください。